de-sport: The Deconstruction and Reconstruction of Sports through Art

  1. 21st Century Museum of Contemporary Art, Kanazawa
  2. Content, Environment, Strategy
  3. 2020
de-sport title logo on the wall at the entrance of the exhibition. Viewing from the courtyard.

「de-sport: 芸術によるスポーツの解体と再構築」は、日本を代表する現代美術館の一つである金沢21世紀美術館が、東京2020オリンピックのタイミングに合わせて開催した、芸術の視点からスポーツを再考する展覧会です。Kamimura & Co. は美術館のキュレーションチームと協働し、展覧会のアートディレクション、デザインを行いました。

この展覧会は、私たちのスタジオが現代美術の展覧会に関わる最初の仕事となりました。本展のメインキュレーターである髙橋洋介氏が最初に私たちに求めたのは、古代のスポーツの忘れられた事実、近現代のスポーツの商品化や政治化、そこに生じる混乱・変化・矛盾、それらに対して、タイポグラフィ(=私たちのスタジオが探求してきた方法)を使って回答を出してほしいというものでした。当初、髙橋氏からは出展作家の1組としての参加も提案され、私たちはそのことを嬉しく思いましたが、今回はあくまでも展覧会のデザイナーという立場での参加を望みました。私たちは、デザイナーという立場だからこそ意味をもつアプローチを試みたいと考えていました。

デザイナーという職業は、その成り立ちを遡ればアートとの重なり合いを少なからず持っています。しかし、アーティストではなくデザイナーという立場は、美術館——とりわけ、金沢21世紀美術館のようにデザインと呼ばれるものを収蔵しながら、デザイン業務の委託をする美術館——にとっては、未だ曖昧な存在です。美術館がデザイナーをどのような存在とみなしているかは、彼らあるいは彼女ら自身の依頼によって作られたデザインの扱い——つまり、それを収蔵作品や展示作品と同等になりうるものと考えるのか、もしくはオフィスの消耗品と考えるのか——から、うかがい知ることができます。美術展のポスターを思い浮かべてみると、そこには大抵「デザインはアートの側なのか?それともスーツの側なのか?」といった混乱が垣間見えます。この展覧会が扱うスポーツの諸問題——すなわち、スポーツはアートの側なのか?それともスーツの側なのか?——は、どうやら、美術館におけるデザインという存在が引き起こす混乱に似ているようです。そして、このような問題に対する私たちの回答ははっきりしています。「区分は重要ではありません」。

では、美術館はどのようにデザインを扱っているのか。アートとデザイン、あるいは作品と情報の混同を避けようとするとき、その傾向は表面化します。そこではアートが主役であることは明白で、当然のようにデザインは補佐にまわることを求められます。しかし、デザインへの要求はそれだけにとどまりません。スーツを着てアートの仕事もこなすこと、つまり、マーケティングの効果をもったアート、すなわち “モナリザ” であることも求められているのです。補佐をできるモナリザであれという無理難題に対し、多くのデザイナーは、展示作品を広報ポスターの主役に据え、代わり映えしない(もしくは変えることの許されない)フォーマットに従ったキャプションを作り——それを仕上げる技術や精度こそがモナリザ同様に重要であると密かに主張しながら——その責任を、アートと美術館に押し返しているようです。では、絵画における額縁のように、アートの引き立て役となることがデザインの役割なのでしょうか?

しばしば、象徴的な美術館の建築が作品よりも重宝されているように、美術館は “美” の中に——意識してか、せずか——マーケティングの要素を強く求めています。ポストモダン以降の建築家が意識的にそうであるように、ここ数十年の美術館建築は、建築が “ロゴ” そのものであり、実際に美術館の姿そのままをロゴマークにした例は数多く見られます。金沢21世紀美術館も例外でなく、マークは建築の平面図そのものです。ここでもグラフィックデザイナーは新たなモナリザを創造せず、巧妙にその責任と役割を美術館に押し返す方法をとっているようです(そして、それは美談として語られています)。では、対象となるものの特性を抜き出して提示することがデザインの役割なのでしょうか?

モナリザの創造を拒否し、対象の特性を横領するといった方法の正当化は、かの有名なマルセル・デュシャンによるレディメイドの発明以降、ますます進んでいるように見えます。それは、レディメイドがどのように解釈されたかに関わらずに、です。とりわけ日本において、このような方法を好むデザイナーは、対象の持つ価値に便乗することで、自身のラベルを価値ある商品としてプロモーションし、デザインそれ自体の方法においては対象の背後に回ることを正当化してきました。価値の定まらないものを作り出し、取り扱う際には、正確には予測できないリスクと責任が生じるため、それを避けようとすることは当然ともいえます。そのような痛みを避けるために、私たち人間は、調査、分析、工夫を積み重ね、それをフォーマットやルールとして少しずつ定着させていきます。特に、スポーツのようなゲームや、近現代の産業、そして国際政治には、ルール化と、その難しさの歴史が分かりやすく現れています。しかし、ルール化することは痛みを取り除くメリットがある反面、扱い方を間違えるとそれ自体が痛みになってしまうというジレンマも抱えています。背後に回ることを正当化し続けたデザイナーのデザインが、新たな価値を創造しなくなり(あるいはできなくなり)、立派なラベルがついたもぬけの殻と化してしまうのは皮肉な例です。ルールを信仰しすぎるが故の思考の放棄、時代錯誤となったルールの弊害、ルールに導かれた異様なまでの同質化、この展覧会が、シニカルに、あるいはコミカルに示すものについて、私たちはそう解釈しました。

本展の主旨は、そのタイトル “de-sport” という造語に集約されています。“楽しみ” を意味する中世フランス語の “desport(デスポール)” と “deconstructed sport(脱構築されたスポーツ)” という意味を持つこの主題から、私たちは、展覧会のデザイン自体を脱構築し、新たな楽しみ方を作れないかと考えました。つまりそれは、“美術展のデザイン” という硬直化したフォーマットやルールをいかに作り変えていくか、という試みです。私たちが最初に思いついたのは、この美術館が持つモナリザ=SANAAの設計による建築を、スポーツスタジアムに見立て、それに従ってロゴマークを再度エンブレム化、(1964年の東京オリンピック以降に恒例化した)スポーツイベントのアイデンティティシステムも同様に設計し、図録はガイドブックになり、アーティストは選手になる——つまり、美術展の意味や役割を一度解体し、スポーツ産業として再構築する——というものでした。プロジェクトはこのアイデアを有力な候補として進み、私たちは時間に糸目を付けず専用のタイプフェイスの開発まで進めていました。公立の美術館の仕事は名誉なことだという想いが私たちにはあったからです。しかし、度重なる展示内容の変更、方針の修正によって、実現の一歩手前まで作られたタイプフェイスが日の目を見ることはありませんでした。幸い、この修正はキュレーションとアートディレクション上の判断によるものであり、オリンピックのような政治的な混乱によるものではありませんが、“デザイン” が——その扱われ方に関わらず——多様な欲望の受け皿となっていることをあらためて認識せざるをえませんでした。

このアイデアで達成できていないことは何か。主な問題はこうです。「このタイプのアイデアから導き出されるビジュアルでは、もはや(ポップアートがそうなってしまったように)商品化されたアイロニーしか見出せず、文明化以前のスポーツにあった、運動することそれ自体の喜びや楽しみ、また、それと表裏一体である野蛮さや狂気をイメージすることができない」。その結果、次に選ばれたのは、今日における “正しいスポーツ” や “正しい展覧会” の在り方を逆説的に強調するために、可能な限り逆の方法をとる——つまり、正しくないことを行う——という単純なアイデアです。しかし、この種のアイデアはそれ自体が単純であっても、様々な理由によって実現までに多くのハードルを伴います。私たちはそのハードルを越える——もしくはスルーする——ために、ただ逆のことを行うのではなく、“正しい” とされることと “誤り” とされることの両方を取り入れ、その是非が判断ができない状態——すなわち、勝敗が定まらないゲームの最中——を作り出そうと考えました。このアイデアを実現する上で重要なのは、勝敗をめぐるスリルや、番狂わせの逆転劇といったスペクタクルです。そう、スポーツはエキサイティングでなければいけないのです。この舞台にふさわしいのは、補佐役としてのデザインではなく、アートに屈服せず、ゲームを変えるだけのパフォーマンスをもつトリックスターとしてのデザインでした。

私たちはグラフィックデザイン、あるいはタイポグラフィのセオリーに “逆行” しました。正確には、ルールを破ることと、ルールに従うことの反復です。私たちはまず、「読みにくく難解、かつ、読みやすく平易」な展覧会を実現するため、通常、展示室内にあるはずの解説文をすべて通路に追い出しました。作品は解説を失い、展示室はただひたすら作品と向き合うための空間になりました。追い出された解説は、フォーマットを解体され、会場内のあらゆる場所に散らばっています。これらの解説を読み進めるには、思考を巡らせるだけでなく、同時に体を動かすこと——つまり酸素と血液を巡らせること——が必要です。展覧会の導入部では、これから始まる展示の順序とは逆方向にテキストが流れ、それを読み進めようとすると頭と体はツイストされ、半強制的にストレッチ——あるいは準備運動——が行われます。展示中程では、壁面の上部や下部にテキストが配置され、背伸びをしたり、かがみ込むことを要求されます。さらに、壁面の角に回り込んだテキストは反復運動をしなければ読むことができません。テキストの配置や配列は——その内容に関係なく——隠れた振付、あるいは指示書として機能しています。会場全体に広がる肥大化した章題には、One Minute Faces と名づけられたタイプフェイスが用いられています。このタイプフェイスは出展作家の一人であるエルヴィン・ヴルムの One Minute Sculptures のシリーズから着想を得て、私たちが本展のために制作したものです。各解説の本文に使われている私たちのタイプフェイスは開発に数年かかっていますが、それとは対照的に、One Minute Faces はその名の通り、各文字を1分間で制作しています。半ば適当に作られたようにも見えるこの文字は、その混乱した運筆によって、観客を高揚——あるいは動揺——させ、また、本展ステートメントの表題「スポーツの解体と再構築をめぐって」の文字通り、展覧会を “めぐる” 流れを——混乱した方向へと導くことで——強調しようとします。また、その色彩においては、祝祭的、熱狂的なムードに対する逆行が反映されています。全体に渡って使われているシアンは、美術館のブランドカラーであるオレンジの補色(反対色)に由来し、合わせて使われているシルバーは、第一回近代オリンピックの優勝メダルの色、そして、現代の金メダルの内側にある主要な成分としてのシルバーに由来しています。シアンとシルバーという冷たい色彩は、この美術館自体が持つ高潔なホワイトキューブの効果と相まって、イベントにつきものの熱狂や興奮を鎮め、常に冷静でいることを観客に要求します。そう、これはエキサイティングではないのだ、と。

正反対にあるこうした二つの要求、つまり、興奮と鎮静を同時に促すという矛盾は、鑑賞者に耐え難いプレッシャーを与えます。しかし、このようなプレッシャーは、勝敗を巡るスリリングな局面にはつきものであり、この緊張関係こそがスペクタクル、すなわち、本展のデザインの成立には不可欠でした。de-sport のデザインは、こうしたプロセス——あるいはハードなエクササイズ——を経て、ようやく日の目を見ることとなりました。「一体どのようにすれば、ルールを変えること/更新することができるのか?」。このデザインは、既存のルールに対し、その混乱した姿で疑問を投げかけながら、あたかもそれ自身はルールを守っているかのように平静を装っています。この自己矛盾を孕んだ表現——イメージを批判するイメージ——は、正しく実効性のある “デザイン” として認められるのでしょうか?それとも、見るに耐えない “消耗品” になるのでしょうか?このような問題に対する私たちの回答ははっきりしています。「区分は重要ではありません」。

de-sport: 芸術によるスポーツの解体と再構築
2020年6月27日 - 2020年9月27日
出品作家: 風間サチコ、柳井信乃、アローラ&カルサディーラ、シャルル・フレジェ、クリスチャン・ヤンコフスキー、エルヴィン・ヴルム、西京人、ザ・ユージーン・スタジオ、ガブリエル・オロスコ、リアム・ギリック
主催: 金沢21世紀美術館

kanazawa21.jp